世紀末ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムト (1862-1918) の傑作を一堂に集めた展覧会 「クリムト展 ウィーンと日本 1900」 を開催いたします。
クリムトの没後 100 年と、日本オーストリア友好 150 周年を記念する本展は、国内で開催された展覧会の中では過去最多となるクリムトの油彩画
25 点以上を展示する貴重な機会となります。 さらに、全長 34 メートルに及ぶ壁画 《ベートーヴェン・フリーズ》 の精巧な複製の他、同時代のウィーンで活躍した画家たちの作品や日本美術に影響を受けた作品を含めて、クリムト芸術の全容に迫ります。 本展は世界屈指のクリムト・コレクションを誇るベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館の監修のもと企画構成され、長年の準備を経て実現いたしました。 初期にはアカデミックな画風で名を上げ、劇場装飾を手がけるなど若い頃から頭角を現したクリムトは、やがて保守的な画壇との対立からウィーン分離派を結成しました。 新たな芸術を模索する中で、東西の様々な美術を取り入れながら、クリムトの代名詞ともいえる 「黄金様式」 の時代を迎えます。 本展出品の 《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》 や 《ユディトⅠ》 などはこの時代の代表作です。 また今回、日本初出品となる 《女の三世代》 を中心とした、受胎から誕生、成熟から死まで、人間の生命の円環を見つめた作品群を展示するとともに、彩色豊かな風景画や優美な女性像などテーマ別の切り口でクリムトの作品世界を紹介します。 |
ウィーンと日本 1900 |
1873 年に開かれたウイーン万国博覧会では日本館が好評を博した。 このことがきっかけとなり、1900 年頃のウィーンでは本格的な日本美術の展覧会が開催されたり、専門書が刊行されたりと、日本美術が大きな注目を集めていた。 |
会期: 2019 4/23 [火]~ 7/10 [水] 展覧会は終了しました。
休室日: 5 月 7 日(火)、20 日(月)、27 日(月)、6 月 3 日(月)、17 日(月)、7 月 1 日(月) 開室時間: 午前 9 時 30 分~ 午後 5 時 30 分、 (毎週金曜日は午後 8 時まで開室) ※入室は閉室の30分前まで 会場: 東京都美術館 企画展示室 (上野公園内) 主催:東京都美術館(公益財団法人東京都歴史文化財団)、朝日新聞社、TBS、ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館 ………巡回先情報……… 会期: 2019 7/23 [火]~ 10/14 [月・祝] 展覧会は終了しました。 会場: 豊田市美術館 (愛知県豊田市) 主催:豊田市美術館、朝日新聞社、中京テレビ放送、ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館 後援:オーストリア大使館/オーストリア文化フォーラム |
'2019 4_22 日本オーストリア友好 150 周年記念 「クリムト展 ウィーンと日本 1900」 開会式とプレス内覧会、「クリムト展」 図録からの抜粋文でご紹介しています。 |
・画像をクリックすると 「来賓者」 のご祝辞と 「主催者」 のご挨拶がご覧いただけます。 |
日本とオーストリア友好 150 周年記念 |
生命の円環―生殖から死に至る人間の生成と消滅 |
「クリムト展 ウィーンと日本 1900」 展覧会概要 |
|
ウィーン世紀末の巨匠、グスタフ・クリムトの傑作が一堂に会する展覧会です。 輝く金箔と鮮やかな色彩で彩られた 「黄金様式」 の時代の作品を中心に、本展に出品される油彩画は国内で過去最多、25
点に上ります。 |
|
Chapter 1. クリムトとその家族 Chapter 2. 修業時代と劇場装飾 Chapter 3. 私生活 Chapter 4. ウィーンと日本 1900 Chapter 5. ウィーン分離派 Chapter 6. 風景画 Chapter 7. 肖像画 Chapter 8. 生命の円環 |
'2019 4_22 日本オーストリア友好 150 周年記念 「クリムト展 ウィーンと日本 1900」 プレス内覧会展示風景・ギャラリートーク、「クリムト展」図録の抜粋文でご紹介しています。
|
Chapter 1. クリムトとその家族 |
クリムトは、北ボヘミアンから移住の金工師の父エルンスト・クリムトと、ウィーン出身の母アンナ・ロザリア・フィンスターの長男としてウィーン近くのバウムガルテンで 1862 年 7 月 14 日に生まれた。 クリムトには姉クララとヘルミーネ、アンナ、ヨハンナの 3人の妹に、さらにエルンストとゲオルクという二人の弟がいた。 父は大家族を養うのに苦労していたが、クリムトは家族を非常に大切にし、生涯を通じて母と未婚の末娘と共に暮らした。 クリムトは 1876 年からウィーンの工芸美術学校で絵画を学んだ、1 年後、弟のエルンストも同校に入学した。 1889 年から 1896 年まで、一番下の弟ゲオルクも同校で金属彫刻を学んだ。 クリムトは 1883 年に卒業後、着実にキャリアを積み重ねウィーンを代表する画家になるにつれ、家族の経済状態も、クリムトの生活も安定していった。 1892 年に父親が脳卒中で亡くなったため、クリムトと弟エルンストの収入で家族全員を養うことになる。 しかし同じ年にエルンストが心膜炎のため急死してしまう。 |
左、・No. 2 《グスタフ・クリムト》 1887 年頃 写真 16.3 x 10.9 cm ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館、ウィーン / 右、・No 3 カール・シュースター 《エルンスト・クリムト》 1890 年頃 写真 16.3 x 10.7 cm ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館、ウィーン |
・No. 2 グスタフ・クリムトは一度も自画像を描いたことがないと述べているが、肖像写真はウィーンの工芸美術学校時代に始まり、あらゆる年代のものが知られている。
この写真は、彼が 25 歳ぐらいの頃に撮影されたと考えられる。 / ・No. 3 エルンスト・クリムトは、 1864 年生れの 2 歳年下の弟で、兄グスタフ・クリムトが入学した工芸美術学校に
1 年後に入学し、兄とフランツ・マッチュの 「芸術カンパニー」 のグループに参加、1890 年頃、イギリスのラファエル前派に傾倒していた彼は批評家に高く評価され、兄同様に才能を認められていた。
1891 年にヘレーネ・フレーゲと結婚し、娘には、母と同じくヘレーネと名づける。 クリムトにとってヘレーネの妹エミーリエは、最も大切な女性であり、プラトニックな恋人になった。
しかし、父の死の数か月後の 1892 年 12 月弟エルンストも急死し、クリムトにとって大打撃となつた。 |
左、・No. 5 ジャン・ヘルプスト 《ゲオルク・クリムト》 1890 年頃 写真 10.65 x 6.8 cm ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館、ウィーン / 右、・No. 6 フランツ・マッチュ 《ヘルミーネとクララ・クリムト》 1882 年頃 油彩、カンヴァス 33 x 43 cm ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館 (個人から寄託)、ウィーン |
・No. 5 ゲオルク・クリムトは、グスタフ・クリムトの一番下の弟で、1867 年生まれの 5 歳下である。 兄のクリムトやエルンストと同じくウィーンの工芸美術学校に入学したが、絵画ではなく、金属彫刻を学んだ。 兄クリムトの主要作品、No. 62 《ヌーダ・ヴェリタス (裸の真実)》、No. 63 《ユディトⅠ》 などの額縁の金属部分は、ゲオルクが制作している。 ゲオルクは1902 年から 1922 年まで、ウィーン女子美術学校の教授として美術工芸金属加工のクラスを受け持っていた。 / ・No. 6 《ヘルミーネとクララ・クリムト》 1882 年頃に顔貌表現を研究していた工芸美術学校の同級生であったフランツ・マッイュが描いたクリムト家の上の娘二人の肖像画で、クララは、クリムトよりも 2 歳年上で、その後、クリムトとエルンストに次いで、1865 年にヘルミーネが 4 番目の子供として生まれた。1873 年に末娘のヨハンナが生れ、ヨハンナは結婚したが、クララとヘルミーネは生涯独身で、クリムトは亡くなるまでこの二人と母親とともに住んでいた。 クリムトは収入の少ない父親を助けて、若い頃から家計を支えていた。 |
Chapter 3. 私生活 |
1892 年に父と弟エルンストが急死すると、クリムトは個人的な危機に陥り、創作意欲を失う。 クリムトは一人で母と姉妹の面倒に、亡くなった弟の幼い妹の後見人でもあった。 弟の未亡人の妹、エミーリエ・フレーゲは、クリムトが亡くなるまで最も親しい女性だった。 1899 年の夏 7 月、クリムトのモデルを務めたマリア・ウチッカーがグスタフと名づける最初の非摘出の息子を産んだ。 そしてその年 9 月には、モデルのマリー・“ミッツィ”・ツィンマーマンが二人目の非摘出の息子を産み、同じグスタフと名づけた。 1899 年の夏にクリムトは、アルマ・シンドラー、のちのアルマ・マーラー (作曲家グスタフ・マーラーの妻) とも関係をもつ。 クリムトは、亡くなるまで独身のまま、母と姉妹と暮らした。 彼にとって最も大切な人物は、生涯エミーリエだった。 |
左、・No. 35 S.フレック・スタジオ(ウィーン) 《マリー・“ミッツィ”・ツィンマーマンと息子グスタフ》 1905 年頃 写真 15 x 10.2 cm クリムト財団、ウィーン / 左、・No. 37 カール・シュトレンペル・スタジオ(ウィーン) 《マリア・ウチッカー》 1899 年頃 写真 14 x 9.6 cm クリムト財団、ウィーン |
・No. 35 マリー・“ミッツィ”・ツィンマーマンはロシア人とチェコ人の祖先をもち、彼女 18 歳の 1896/7 年頃クリムトと出会い、絵を描かせてほしいと頼まれたそうです。 1899 年息子グスタフが誕生し、クリムトはアトリエの近くにアパートを用意したが、子育てにはほとんど関わらなかった。/ ・No. 37 マリア・ウチッカーは 1880 年チェコに生まれ、母親と二人でウィーンにやってきて、クリムトとはウィーンのドミニコ教会で出会い、その後モデルになった。 1899 年に生まれた息子グスタフの、親は公表されず、クリムトの死後、裁判で親子関係が認められた。 クリムトは息子のために財政支援をしたものの、親子の交流はほとんどなかった。 |
右、・No. 42 ハインリヒ・ベーラー 《グスタフ・クリムトとファッションデザイナーのエミーリエ・フレーゲ》 1909 年 ブロムオイル・プリント 28 x 18 cm ウィーン応用美術大学 / 左、・No. 44 グスタフ・クリムト 《グスタフ・クリムトからエミーリエ・フレーゲに宛てた書簡( 7 通)》 1895-99 年 黒インク、紙 ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館(個人からの寄託)、ウィーン |
・No. 42 撮影者のベーラーは、クリムト作品の最も重要なコレクターの一人で、経済的にも恵まれていた。 彼は従兄弟のハンス同様、画家としても活躍しており、エゴン・シーレから教えを受けていた。 / ・No. 44 グスタフ・クリムトからエミーリエ・フレーゲに宛てた書簡( 7 通)は、クリムトが 1895 年から 1898 年の間に激しくエミーリエに求愛していたことを物語る。 クリムトのアプローチは 1899 年頃には終わっていたようで、それはおそらく、この年の夏に二人の女性との間にそれぞれ非摘出の息子が生まれたことと関係しているのだろう。 |
画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。 |
Chapter 5. ウィーン分離派 |
1897 年、進歩的な考えをもつ若い芸術家たちが、クリムトをリーダーとして、ウィーンの保守的な芸術団体、ウィーン造形芸術家協会から脱退し、ウィーン分離派を設立した。 クリムトはその初代会長である。 彼らはヨーロッパの最先端の絵画に触れ、象徴主義、ユーゲントシュティール、印象派、新印象派が持つ新たな芸術的可能性に熱狂した。 さらにウィーン分離派は、1900 年にアドルフ・フィッシャーのコレクションを展示する大規模な日本美術展を開催した。 クリムトの様式の変化は保守的な批評家筋には認められず、作品はメディアでも激しい議論を呼び、中には裁判所に押収されたり、議会で取り上げられたりした作品もあった。 第 14 回分離派展のために、クリムトが 1901 年晩年に制作したリヒャルト・ヴァーグナーの解釈によるベートーヴェンの交響曲第 9 番に着想を得た 《ベートーヴェン・フリーズ》(cat. No. 73) は、この時代を代表する壁画作品である。 |
左、・No. 62 グスタフ・クリムト 《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》 1899 年 油彩、カンヴァス 244 x 56.5 cm オーストリア演劇博物館、ウィーン / 右、・No. 63 グスタフ・クリムト 《ユディトⅠ》 1901 年 油彩、カンヴァス 84 x 42 cm ベルヴェデーレ宮オーストリア、ウィーン |
・No. 62 ウィーン分離派が結成される中、1898 年にクリムトが着想した本作品は、ウィーン分離派の掲げた綱領に基づき制作された象徴的絵画に数えられるとともに、新たな芸術運動の理想に身を投じようとするクリムトの決意を示す作品の一つである。
【フリードリヒ・シラーを引用、女性の頭上に大文字で 「汝の行為と芸術をすべての人に好んでもらえないのなら、それを少数者に対して行え。 多数者に好んでもらうのは悪なり。」
と書き込んだ。】 / ・No. 63 クリムトの代表作の一つとして知られる 《ユディトⅠ》 は、彼の名を広めた特徴をすべて備えた作品である。
装飾的な効果を伴う様式化された構図、様々な文様、高価な装身具を身に纏いながら、裸身をさらす主人公の女性のエロティシズム。 そして何より、初めて本物の金箔が使われた絵画という点で、本作品はクリムトの
「黄金様式」 の時代の幕開けを飾る作品となった。 若き未亡人ユディトは、司令官ホロフェルネスを誘惑して酔いつぶし、剣で眠る彼の首を切り落とした。
城壁にさらされた首を見て、指揮官を失った軍の混乱に乗じて、ユダヤの住民たちはアッシリア兵を全滅させた。 |
・No. 73 グスタフ・クリムト 《ベートーヴェン・フリーズ(部分)》 1984 年(オリジナルは 1901-02 年) クレヨン、サンギーヌ、パステル、カゼイン絵具、金、銀、漆喰、モルタル、その他 216 x 3438 cm ベルヴェデーレ宮オーストリア、ウィーン |
・No. 73 クリムトの代表作の中でもとくに重要な作品の一つで、 1902 年に開催された第 14 回ウィーン分離派展のための壁画、この展覧会でウィーン分離派は、「総合芸術」 を志向する展覧会という構想を初めて実現させ、オーストリアの美術史に名を残すこととなった。 一つのテーマに沿って、ウィーン分離派の芸術家たちは、ベートーヴェンの音楽を主題とする壁画、彫像、装飾さらには家具の新作を発表した。 クリムトのテーマは、交響曲第 9 番、リヒャルト・ヴァーグナーの叙述的解釈で、左側の壁にはまず 「甲冑を纏う強者」 、強者は、「苦しむ人間」 から 「敵対する力」 と戦うことを懇願されている。 その 「敵対する力」 は、正面の壁に描かれる。 幸福を求める人々に寄り添う精霊が、上空を舞う。 聖霊は、右側の壁面に竪琴を持つ女性として現れる 「詩」 に充足を見いだす。 続く空白の壁には、中央ホールのベートーヴェン像が見渡せる位置にあり、それを過ぎると、フリーズは 「諸芸術」 と 「楽園の天使の合唱」 で締めくくられる。 天使たちが歌うのは、ベートーヴェンの交響曲の最後を飾るシラーの詩 「歓喜の詩」 だ。 |
Chapter 7. 肖像画 |
|
クリムトは女性を描く画家として名高い。 自画像を描かなかったクリムトは、「自画像はない。 私は自分という人物には関心がない。 それよりもほかの人間、女性に関心がある」 と述べている。 ウィーン社交界の女性たちを描いた作品において、クリムトは進歩的な富裕市民層に特有の優雅さと官能性とを融合させた。 とりわけ上流階級の女性たちを縛る当時の厳格な社会的慣習と、知的な、あるいは性的な解放に対する欲求と矛盾を形に表した。 クリムトは肖像画の中で婦人たちを女優のように扱い、衣装、ポーズ、仕草によって、まるで演劇のように彼女たちに役を演じさせた。 そこにクリムトの肖像画の魅力があり、成功の理由がある。 「黄金様式」 の時代以降、女性たちの背景、意匠や宝飾品は、厳密に形式的かつ装飾的に描かれるようになるが、肌や髪など、身体の見える部分は軽やかな印象派の描法で描かれ、肌はほとんど透明に見えるほどだ。 硬く固定された社会的抑圧というコルセットと、生きた人間の儚く不安定な性質を対比させるという、象徴的な意味をそこに重ねて見ることもできる。 |
|
・No. 94 マックス・クルツヴァイル 《ミラ・バウアー》 1907 年 油彩・黒チョーク、カンヴァス 66.3 x 52.5 cm ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館、ウィーン / ・No.95 オットー・フリードリヒ 《エルザ・ガラフレ》 1908 年 油彩、カンヴァス 100 x 100 cm ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館、ウィーン |
|
・No. 94 ウィーン分離派の設立者の一人であったクルツヴァイルは、後期印象派の描法で、有力な銀行家であり企業家の家に生まれた姉妹のうち、姉の肖像を描いた。 この場面の雰囲気から伝わるある種の心地良さと信頼感は、画家がバウアー家と非常に親しかったことと関係しているのだろう。 / ・No. 95 ウィーン分離派の設立者の一人であるオットー・フリードリヒは 1900 年以降、おもに肖像画と風景画に専念し、それまでの創作活動において重視してきた歴史画というジャンルから離れていった。 女優エルザ・ガリアを描いた本作品は、優れたピアニストでもあった彼女の挑むような態度によってさらに素っ気なさが助長されている。 |
|
・No. 104 グスタフ・クリムト 《白い服の女》 1917-18 年 油彩、カンヴァス 70 x 70 cm ベルヴェデーレ宮オーストリア、ウィーン |
|
・No. 104 この小さな作品は、クリムトが亡くなる際に、未完成のままアトリエに残されていた作品の 1 点である。 本作品でクリムトが描いた女性が誰であるかは、依然として不明である。 彼は、おもに高い報酬が約束された重要な依頼において全身像を大きく描いたが、他に数多くの半身像も手がけていた。 そのほとんどが匿名の女性の肖像画で、依頼を受けずに制作された個人的な習作と見なされる。 女性たちは、クリムトが構図、顔の表情、姿勢に満足するまでポーズを取り続けた。 |
グスタフ・クリムト (1862-1918) |
|||
世紀末ウィーンを代表する画家。 ウィーンの美術工芸学校に学ぶ。 初期にはアカデミックな作風で才能を認められ、劇場の壁画装飾などで名を馳せる。 1897 年に保守的なウィーンの画壇から離脱し、「ウィーン分離派」 を結成すると、初代会長として分離派会館を中心に多くの展覧会を開催しながら、新しい造形表願を追求。 同時代の芸術家らとともに、絵画、彫刻、建築、工芸の融合を目指す総合芸術を志向する。 エゴン・シーレら次世代の画家たちにも多大なる影響を与えた。 |
|||
1862 年 ( 0 歳 ) ウィーン郊外のバウムガルテンに生まれる。 |
|||
クリムト作品の魅力 ―クリムト作品のなりよりの魅力は、華やかな装飾性と世紀末的な官能性をあわせもつ独自の様式にあろう。 金箔やガラスなど、ビザンティンや中世の美術に通じる素材が多用された絵画は、精密な工芸品のような輝きを放つ。
日本の浮世絵や琳派からの影響も少なくない。 |
お問合せ:tel 03-5777-8600(ハローダイヤル) |
主催:東京都美術館(公益財団法人東京都歴史文化財団)、朝日新聞社、TBS、 |
参考資料:「クリムト展 ウィーンと日本 1900」 プレス説明会、PRESS RELEASE & 報道資料 、他。 |
ご意見ご感想は yashio@mui.biglobe.ne.jp |
Copyright © 2002-2019 Yashio.ALL Rights Reserved. |